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八王子千人同心・今では、八王子市千人町にその名を留めるだけで、その名を知る人も多くはないが、多摩地域の歴史を知る上で欠かせない存在である。
天正18年(1590年)徳川家康が関東の領主となり、多摩地域は徳川氏の支配下に入った。武田氏の遺臣で国境警備にあたっていた小人頭(こびとがしら)は、旧八王子城下に配備されることになった。これが八王子千人同心の始まりである。
当初は、約250人の軍団であったが、徳川政権の確立と共に組織が整備され、慶長4年(1599年)に名称どおり、千人の軍団となった。旗本である千人頭十人、組頭百人、組頭の従者の持添抱同心(もちぞえかかえどうしん)百人(後に廃止)、平同心八百人という構成である。
江戸時代、同心のような下級の役人でも、武士は城下町に住むこととされていたが、彼らは八王子近在の農村に暮らしていた。
武士としての俸禄がある一方、公務以外の平時は農民として農業を営み、年貢を納めていたのである。農民と同じ扱いを受け、五人組町や宗門人別長にも記載され、江戸も半ばを過ぎて、ようやく、「千人同心」という肩書きが記されるようになる。
公務の内容は変化した。徳川政権が確立し、世の中が安定すると、将軍の上洛時、日光社参時のお供や江戸城修築の警備などの任務が中心となり、後には日光東照宮の火の番を交替で勤めるようになる。千人頭一人と同心五十人が半年単位で交替し、火の番をした。この日光勤番は、幕末まで続く主要任務となっていく。
また、幕府の文武奨励により、公務や農業の合間に、文化活動に勤しむ同心が増えてきた。武術や漢詩、医術や蘭学などを学ぶ者や、当時幕府の人材養成機関であった、昌平坂学問所で学ぶ者も出た。彼らは、私塾を開いて文武を教え、門弟を育てる傍ら、地誌の編纂や歴史書を著し、多摩地域の開明的文化人として活躍した。
著書としては、「新編武蔵風土記稿」・「日光山志」・「武蔵名勝図絵」・「桑都日記」が有名である。特に、「桑都日記」を著した塩野適斉(しおのてきさい)は、文武両道に優れていたと伝えられ、八王子千人町に住む同心の多くは、塩野の指導を受けていたといわれている。
適斉は、安永4年(1775年)組頭河西家の次男として生まれ、寛政3年(1791年)に河西家と親交が深かった同じ組頭の塩野家の養子となった。若い時から学問に取り組み、儒学・天文学・暦学に詳しい養父からも多くを学んだといわれている。また、剣術や拳法では指南役を得ている。文武に優れた適斉は、八王子のほか日光でも私塾を開き、多くの門弟を指導した。
日光勤番や北海道開拓(蝦夷地御用江戸掛り)などの公務の一方、多くの著作を残している。前述の「桑都日記」は、正編と続編から成る。正編は八王子や千人同心の通史を補う為の事項を中心に書かれている。
徳川治世の間、多少の組織改革はあったものの千人同心の活躍は幕末まで続いた。だが、彼らも、幕末の激動に否応なく巻き込まれることになる。
幕末の動乱期に西洋の砲術訓練などの近代的な軍事訓練を受けた千人同心には、次々と出動命令が下される。長州出兵に参加して江戸から広島・小倉と転戦を重ねた同心は400人以上に上がった。
慶応2年(1866年)、幕府の兵制改革により千人同心は千人隊と名称を変更。しかし、ついに慶応4年(1868年)に、千人隊は徳川慶喜の方針どおりに新政府に恭順することを示し、同心たちはそれぞれの人生の選択を迫られることになる。徳川家に従い駿河に移る者、新政府に従事する道を選ぶ者、武士身分を捨てて農民となる者など。
そして、287年間続いた「千人同心」の組織は解体したのである。
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■八王子千人同心組頭の家
八王子千人同心は、甲斐の国と武蔵の国の国境を警備する為に八王子に配備された郷土集団で、平常は農業に従事していた。関が原の戦いの頃は、千人程の規模であったため、その名が付けられた。
この建物は、千人同心の組頭を務めた塩野家の子孫から建物を買取り、その部材を転用して農家を建てていた溝呂木家の各部材に残る痕跡調査から、江戸時代後期の千人同心の住んでいた頃を復元したものである。
塩野家の祖先には、「桑都(そうと)日記」の著者として有名な塩野適斉がいる。
○ 建築年代:江戸時代後期
○ 旧所在地:八王子市追分町 |
企画・編集 江戸東京たてもの園
発行 東京都江戸東京博物館「江戸東京たてもの園」より
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